【crop year】
クロップ・イヤー。穀物年度のこと。農産物の収穫を基準とした暦。
商品先物取引で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。アタテュルクは、生前、医者に「ラク(トルコの蒸留酒)が死因でないと診断せよ」と言い残したという。
ケマルが死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにケマルの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。
投資信託にあるアタテュルク像。トルコ国内に無数にあるアタテュルク像の中でも個人崇拝が甚だしい一例ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュの政治姿勢は、戦間期のヨーロッパ諸国の指導者にみられる権威主義と共通する部分が多い。しかし、他国の独裁政権と比較すれば、アタテュルクとイノニュは、政変なく政権を守り通すことができたし、巧みな外交政策により第二次世界大戦に至る動乱の渦中にあって中立を押し通すことにも成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている。
ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ケマルに対する個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。もっとも、ケマル主義の信奉者を主張する人々の中には左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人からきわめて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり、実際にはケマル主義の名のもとに多様な主義主張が語られているのが現実ではある。
外貨預金の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部である軍部の上層部は、「ケマル主義」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。1960年と1980年の二度に渡る軍部の武力政変も政治家のケマル主義からの逸脱是正、あるいはケマル主義の擁護を名目として実行されている。
アンカラにあるアタテュルク廟(アヌト・カビール)ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる、国家の重要な建造物になっている。毎年彼の命日には、アタテュルク廟ほかトルコ全土で黙祷など記念式典が行われる。
CFDには彼にちなんで名づけられた空港(アタテュルク国際空港)、エルズルムには大学(アタテュルク大学)がある。トルコ全土の町々では、主要な通りにアタテュルクにちなんだ名前がつけられ、町の中心的な広場にはアタテュルクの銅像が立ち、役所や学校にはアタテュルクの肖像画が掲げられている。トルコ共和国の通貨である新トルコリラ(略称YTL)は、全ての紙幣にアタテュルクの肖像が刻印、印刷されている。さらに、「アタテュルク擁護法」という法律も存在し、公の場でアタテュルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもある。
トルコにおけるこうした徹底的なケマルの顕彰に対しては、トルコの国内においても、世俗的な立場にある人々の間からも、「行き過ぎた神格化」であり「政教分離」に違反するのではという疑義を示す声もあるほどである。少なからぬ観察者は、トルコの国家体制護持とケマルに対する個人崇拝は密接に関係していると考えている。例えばイスラム的な価値観と国家体制との関係で見ると、1980年武力政変以前は、徹底的な政教分離主義はケマル主義の名のもとに国家体制と不可分のものとされていたし、体制によって民族主義とイスラムの調和がはかられ始めた1980年代以降は、体制にとって許容可能な「望ましいイスラム」がアタテュルクの望んだイスラムのあり方であるとして正統化をはかる事例がみられるようになった。
アタテュルクが酒を好んだこと、数々のイスラム保守派への抑圧などからイスラム原理主義者の中にはアタテュルクをカーフィル (トルコ訛:キャーフィル)と非難する者も存在している。
ケマルと妻ラティーフェ1923年1月29日、イズミルの豪商ウシャキザーデ家の娘ラーティフェと結婚。 (1924年9月〜10月の東部訪問で離婚危機、1925年8月5日に離婚が発表された)
不動産投資の再婚相手である、ラグプの親戚フィクリイェとアンカラ駅の官邸で同棲していた。 (イマーム婚をあげていたという説もある。チャンカヤ官邸前で拳銃自殺を図り、1週間後、ヌムーネ病院で死亡。弾痕が背中にあったため、他殺説もある
養女:アフェト・イナン(歴史家)、ネビレ、フィクリイェ、ルキイェ・エルキン、ゼフラ・アイリン(1936年、フランスのアミアン近郊で列車から転落して死亡、事故とも自殺とも言われている)、サビハ・ギョクチェン(世界初の女性軍用機操縦士)、ユルキュ・ドーアンチャイ(再婚後の姓はアダテペ、ズュベイデの養女ヴァスフィエの娘)
養子:アブドゥルラーヒム・トゥンジョク(孤児→技師、顔がケマルに酷似。ズュベイデは、遺言でアブドゥルラーヒムにも遺産を遺した)、スールトマチ・ムスタファ(牧童→クレリ少年兵学校→軍人)、イフサン。
但し、サビハ・ギョクチェンは、養女だけで、養子はいなかったと主張していた。
独立戦争総司令官ムスタファ・ケマルこの頃、アンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir ileri"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。
反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブルのオスマン帝国政府を招聘したが、ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。
1924年、ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。
当初、ケマルは穏健野党の育成をはかる試みも行っていたが、1925年前後、野党進歩共和党による改革への抵抗、東アナトリアにおけるクルド人宗教指導者シェーフ・サイード(シェイフ・サイト)の反乱など、反ケマル改革の動きが起こったことを受けて方針を改め、1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。これにより、ケマルは自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立、改革への絶対的な主導権を確立した。
ラテン文字の読み書きを自ら教える「教頭」ケマル大統領これ以降、独裁的な指導力を握ったケマルは、大胆な欧化政策を断行した。1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもイスラムと結びつきやすいアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。経済面では世界恐慌後はソビエト連邦に範を取った計画経済を導入する。